こんにちは!元小学生兼、元国語教員のエイトマンです!
「言葉」がもたらす好影響
大学時代、部活動の先輩に無茶ぶりしてみた。
おっ!先輩、いい自転車乗ってますねwww名前とかあるんですか?
おう!チャリの「チャーリー」だ!!
私は「この男に一生ついていこう。」そう心に決めた。
前職時、仲のいい同僚に無茶ぶりしてみた。
有名な漫画に「四月は君の嘘」ってあるやん?
それっぽい言葉作ってみてくれん?
いいよ。「6月は僕も無理」
私は「この男になら、戦場で背中を任せられる。」そう確信した。
これらの言葉を聞いた時私は抱腹絶倒するとともに、一種の感動に近い感情すらおぼえたものである。
前者はくだらないながらもその瞬発力に。
後者はそのワードセンスと語感の良さに。
特に後者は、「6月に一体何があるんだ・・・しかも、『も』ということは、この解答をした人物に質問した者も6月は無理だったんだ・・・いったい、6月に何があるんだろう・・・そして解答者たちはどうして6月は無理なのだろうか・・・」
という果てしない物語の広がりを生むものである。
いうなれば、言葉のビッグバンとでも評すべき無限の可能性が、この「6月は僕も無理」という7文字に込められているのだ!(錯乱中)
このように、ユーモアある会話が日常生活で用いられるとき、すでにその人間関係は良好、その関係はその後も継続・発展していくことが予想される。
それでは、その逆はどうだろう?
「言葉」がもたらす悪影響
学生時代の8月。大学近くのコンビニでの出来事。
私はペットボトルの飲料水をレジに出した。
すると50代と思われる女性店員さんがかく語りき。
汗かいてるんで、拭いておきますね!!
私は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の店員さんを除かなければならぬと決意した。
私は確かに汗っかきである。認めよう。しかし自分の手汗の量を大衆の面前で堂々と公表されるほど、耄碌した覚えはない。(不適切な日本語)
憤慨しながらそのコンビニを後にし、「もうこのコンビニは一生使わん!」と不買運動をすることにしたのである。
2、3日後、講義終わりに友人が「飲み物買いたい。」と言って件のコンビニに寄ろうとしたので、私は一連の流れを説明。すると友人が大爆笑し始めたのである。
私は激怒した。必ず、この小太りの友人を除かなければならぬと決意した。
「こやつまでも私の多汗で多感な心を馬鹿にするのか・・・」
しかし、友人から返ってきた言葉は次のようなものであった。
ペットボトルに結露した水滴がついてることを「汗をかく」って表現すんだよwww
そんなことも知らねえのかwww
私はメロス最終盤面でのメロスその人のように赤面し、彼にマントを与えた少女よりも口惜しかった。
そんな表現があるなんて全く知らなかったのである。
てっきりあの店員さんは、私の手汗が不快だと言わんばかりにあの言葉を発したと思っていたのだ。
これまでの記事を読んでくれた人からしたら、「こいつ本当に国語教員だったのか?」という疑問が湧いても当然なほど語彙に疎いエイトマンである。
「お前もペットボトルみたいに汗かいてるじゃねえか。」と訳の分からないレスをその小太りな友人に入れると同時に、私は数日前出会った店員さんにセリヌンティウスの如く心の底から謝り、不買運動も撤回。その後も例のコンビニのお世話になるのだった。
この例は私の知識不足からくる勘違いによるものであるが、「言葉」というのは人に大きな影響を与えることは、先ほどから繰り返しているように皆さんも知っての通りであろう。
言葉は人に+の作用をもたらすものにもなり、-の作用を与える凶器にもなり、しょうもない不買運動のきっかけになったりもするのである。
私が考える「第一印象」のイメージ
「第一印象が重要です。」
進学・就職サイトの面接記事や、恋愛サイトには必ずといっていいほど登場する言葉である。
では、なぜ第一印象が重要なのだろうか?
私は、第一印象で無意識的に「他人を分類」しているからだと考える。
比喩になるが初対面の人に出会った時、人は頭の中でその人を【二つのエレベーターどちらに乗せるか無意識的に選択している】のではないだろうか?と私は考える。
これから説明するのはあくまで私の、無意識のうちに抱いている(かもしれない)イメージを言語化したものである。拙い説明で申し訳ない。(文中に登場する「私」を読者の皆さん自身だと思って考えてみてほしい)
第一印象が良かった人
第一印象が良かった人間に対しては、その人を上り限定のエレベーターに乗せるイメージ(このエレベーターのことを「第一印象良し良しエレベーター」と命名する)だろうか。
その人の行動や言葉を、+の方向(エレベーターの場合は上階)にしか捉えないバイアスがかかるような感覚である。
途中でその人に対して「ん?おかしいな・・・」と違和感を覚えるような出来事があっても、簡単には下降せず、一旦停止するくらいでとどまる。
この人のイメージが180度変わるには、エレベーターが故障して業者が入ってくるくらいの大きな出来事(つまり関係を損なうような重大な出来事)が起きない限り、基本的にエレベーターは上にしか進まない。
その人が「可もなく不可もない言動」を私に向けたとしても、最初に「第一印象良し良しエレベーター」にその人を乗せているので、エレベーターは速度を変えずに昇っていく一方である。
第一印象が悪かった人
逆に第一印象が悪かった人間に対しては、その人を下り限定のエレベーターに乗せるイメージ(このエレベーターのことを「第一印象悪し悪しエレべ)が近いか。
先ほどとは逆にその人の行動や言葉を、-の方向(エレベーターの場合は下階)にしか捉えない可能性が高くなるイメージ。
基本的にこのエレベーターは下降、または停止しており、このエレベーターを上階にも行けるよう修理するのは、前者のエレベーターを修理するよりも多大な労力を要する。
その人が「可もなく不可もない言動」を私に向けた場合、前者とは違いエレベーターは下に向かってどんどん加速していってしまう可能性だってあるのだ。(「やっぱりつまんないやつだな。」みたいな評価を下す可能性が高まる、ということ)
いかかだろうか?このように、初対面の人の評価を完全に二極化することは言い過ぎかもしれない(人によっては評価を保留し、エレベーター前のロビーに待たせておく、など)。
しかし、これに近いことを無意識的にではあるが、ブログを読んでくれている皆さんも頭の中で行っているかもしれない。もしかすると、意識的に行っている人もいるだろう。
「公」と「私」の意識
この「言葉」と「第一印象」に密接に関わってくるのが「公」と「私」の要素である。
「公」とは主に職場を中心とした人間関係で、「私」はそれ以外の人間関係と捉えてもらってよい。(厳密にはその二つが重なる領域も存在するような気がするが)
「公」の場でも、先ほどの第一印象理論が当てはまるが、その印象が行動や言葉になって顕在化する割合は、「私」の場合と比べて低い場合が多い。
具体例を挙げると、あなたが営業職に就いている社会人だとする
取引先の相手がいかに第一印象最悪でも、「それを表に出すと取引が台無しになってしまうかもしれない。」という「公のスイッチ」とでもいうべき作用が働いている(考えてみれば当たり前のことだが)。
そのため、その人が使う言葉や第一印象が悪いからと言って、それを率直に伝えたり、嫌悪感を示すような言動は控えようとするはずである(これが「常識」!?)。
これが「私」の場になるとそのスイッチをオンにする必要は一切ない。
気の置けない友人と笑いあったり、大嫌いな教授のゼミを「く〇ゼミ」と呼び、不満を言うことだって可能なのである。(過去ログ参照)
まとめ
教員時代、身の回りの整理を苦手とする生徒がいた。
その生徒にどう指導すべきか悩んでいた時、信頼していた上司に相談したことがある。その時、その上司はこう言った。
「その子にとっては、身の回りを整理するっていうことは、背の低い子が高い所にある物を取るのと同じことなんだよ。」
なんだか素敵な言葉だなと思ったと同時に、この上司が生徒からも信頼されている理由が分かった気がした。
この言葉を聞いて、どう思うかは人それぞれである。その生徒の台座そのもの(比喩表現だが)になってあげようとするのか、その生徒が台座になるものを自らの力で見つけられるよう協力していくのか。
ただ、やはり「言葉」は人間関係を形作っていくうえでとても大切な要素なんだな、と感じた一時であった。
第一印象もそうである。
一度上行きのエレベーターに乗せた人の話は聞きたいと思うだろうが、下行きのエレベーターに乗せた人の話はどうだろうか?
その人と適切な人間関係を築こうと思えるだろうか?
その最初のベクトルの決定は重要なことのように思える。
皆さんの中にはこの言葉や印象などを使い分けられる人、そうでない人、そもそもそんな分類自体していない人など様々な人がいると思う。
人間関係に悩みを抱いていない人、もしくはこんなことを考えることすらバカバカしいと感じる人もいるかもしれない。
しかし、他者にはこのような考え方をしている人もいるのだ、という意識を持つことは皆さんの今後の人間関係に良い影響を与えるだろう。
また、人間関係に悩みを持っている人は「言葉」と「第一印象」を勉強して、それを実践してみるのもいいだろう。
そのような実践方法についてもいずれ記せればいいな、と思っているが面倒くさいとやらないかもしれない。(おい)
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
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