紫式部だって悪口を言う
ぽこぽこの友人で、元国語教員エイトマンです。
あなたは人の悪口を言ったことがあるだろうか?
私はある。
大学時代、ゲロほど嫌っていた教授がいた。
その教授が担当していた「基礎ゼミナール」という科目を、友人と共に「く〇ゼミナール」と連呼し、その「〇そゼミナール」で溜まった鬱憤を友人と共に晴らしたのは記憶に新しい。(当時の教授すまん)
誰でも人に対するマイナスの感情は抱くものなのだ。
では国語の教科書に名を残すような人物はどうなのだろうか?
卓越した文才、筆舌に尽くしがたい文章の美しさを評価されて、現代までその作品が残っているような方々である。「悪口」などとは無縁なのでは?と考える人もいるかもしれない。
しかし、そのある種の「神格化」が国語学習の妨げになっている可能性を忘れてはならない。
実際そのような人物も、日常生活で「他人に不満を抱く」、我々現代人と同じ感性を持つ一人の人間なのである。
紫式部はこんな悪口を記している。
「清少納言ってメチャクチャ得意げな顔して偉そうにしていた人だわ。あんなに賢そうで、(文章の中に)漢字を多く使っているけれども、よく見ればまだまだ未熟なところが多いのよね。こういう風に、『他人と私は違うのよ』とばかり思っている人に、この先良いことなんて訪れるはずないわ。」(中略・意訳あり)
これは『源氏物語』の作者として名高い紫式部が、自身の『紫式部日記』の中で記した文章である。
『枕草子』(「春はあけぼの。 ~ 夏は夜。」という流麗な文章でおなじみ)を記した清少納言への嫉妬も混ざっていたのだろうか、前半は技量の拙さの指摘に終始しているものの、後半は「良いことなんて訪れない」とまで述べているのである。
中学、高校と学習に励んできた私が「古文」という教科に抱いていた印象は
「なんか堅くてとっつきづれえな・・・」
である。
しかし、大学でこの『紫式部日記』の一節の存在を知った時、なんだか親近感が湧き、1000年の時を越えて紫式部とマブダチになったような感覚に陥ったものである。
まあ、まさか紫式部もこっそり記していた日記が掘り出され、世間に公表されるとは思っていなかっただろうが・・・
古文学習の「導入」でつまずかないために
このように、教科書に名を残すような歌人でさえ人の悪口を文章に残しているのである。
現代に生きる我々と大差ない感性で、生き生きとその人生を謳歌していた姿を想像できたとき、私の古文学習に対する取り組みのモチベーションはかなり高くなった。
平安・鎌倉時代に生きた偉大な人物も、現代人と同じようにライバルの悪口も言うし、教授の悪口も言うのである。
ただ、昔と現代とで大きく異なることが二つある。それは【言葉遣い】と【媒体】の二つ。
歴史的仮名遣い
まず【言葉遣い】について。
古文で学ぶ文章の多くが「歴史的仮名遣い」とよばれる文体で記されている(「てふてふ」や「ゆふぐれ」など)。
現代の文章は「現代仮名遣い」という文体で記されているため、この「歴史的仮名遣い」の文体で書かれた昔の文章を読解しようと試みても、拒否反応が起きるのは当然なのである。
一般的に、ある言語で書かれた文章の95~98%の単語を理解していないと、その文章の内容を理解できないとされる。
私もまだ穢れをしらない中学校一年生時、『竹取物語』の導入「今は昔」を言葉通り「今は昔なんだよ!」と読み取り、「この作者、あほちゃう」と思った記憶がある。
『竹取物語』は、かの有名な『かぐや姫』の原典である。細かい古文学習の方法等については、後日詳述する予定だが、古文学習の導入においては、物語の全体像を現代語訳で理解してから、細かい言葉のルールを覚えるという順で学習していく方が、つまずきは少ない。
中学の古文学習で悩みを抱えているみんな!!遠慮なくネットで現代語訳見ような!!!!
用いられている媒体
次に【媒体】について。
現代は、紙だけでなく音声、映像、WEB上など、自らの思想・思考を表現する媒体が山のようにある。
清少納言だって現代に生まれていれば、
「夏は夜もあっちーから嫌だよおいwww」
と素直にツイートして、バズっていたかもしれない。
しかし、当時はそれが「紙」や「木」しかない。
昔は「文章を記す」という行為は、教養がある人しかできなかった(当時の文化についても後日詳述)+自らの教養が家の繁栄に大きく関わったため、知識人はこぞって小難しく見える文章を、紙や木に記したのである。
和歌や短歌の学習に嫌悪感を抱く人は多いかもしれないが、「当時の人にとっては、これがツイートやインスタグラムの投稿なんだな」くらいの感覚で取り組んでほしい。
まとめ
ここまで古文学習の「導入」について記してきた。
古文単語や古典文法、当時の習慣など古文の学習におけるハードルは低いものではない。
しかし所詮は日本語。
我々の諸先輩方が記した文章であることを頭に置きながら、導入→発展→応用のプロセスを意識して学習に励んでほしい。
最後に、私が好きな百人一首の和歌を紹介したい。
玉の緒よ
絶えなば絶えね
ながらへば
忍ぶることの
よわりもぞする
現代で短く言うと「死ぬほど好き!」で済んでしまうかもしれない言葉。この和歌の意味、そして作者の想いを連想できるまで古文の学習に励み、古文の魅力に気づいてもらいたい。
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