こんにちは!元国語教員エイトマンです。
中学時代
部活動の合宿でビジネスホテルに宿泊。
ユニットバス式の、2人一部屋の一室が私と友人Aに与えられた。
宿泊といえば友人の家しか経験がなかった私は、人生初のビジネスホテルでの宿泊に心躍らせていた。
練習で汗まみれになった友人Aが言う。
「先にシャワー浴びてこいよ。」
穢れてしまった今、この言葉を聞いたら年甲斐もなくドキドキしてしまったかもしれない。
しかし当時の私は純粋無垢な中学生。勢いよく「うん!」と返事をし、ユニットバス式のバスルームに向かった。
そのバスルームは様々なアメニティで溢れていた。人数分のバスタオルやコップ、トイレットペーパー。そして浴槽に取り付けられた用途不明のカーテン・・・。
初めて見る光景に私は面食らったが、友人に言われた通り、シャワーを浴びることにした。
そう、ユニットバスのトイレ側のスペースで。
当時の私もさすがに違和感はあった。悲鳴を上げびしょ濡れになっていくアメニティ類(筆者主観)を横目に、
「これ、トイレットペーパーとかは使えんようになるけど、新しいのが補充されるんやろな。ホテルの用具補充する人って大変だなあ。」とのんきに思っていた。
その後、状況を理解した友人Aに激怒されたことは想像に難くないだろう。
友人Aは、私がわざとこの惨状を引き起こしたと考えたらしい。
なぜなら私は「このタオル濡れたら身体ふけねえな。」と極めて局地的に冷静な思考を働かせ、自分の分のバスタオルだけはちゃっかり部屋の外に出していたからだ。
今となっては、この話も酒の席のいい肴になっている。(アメニティはホテルのスタッフが補充しなおしてくれました)
高校時代
こんな経験もある。
高校3年時、流れ星の観測にはまった私(きっかけは、「星に詳しかったらモテそうだから」という不純なもの)は、年間三大流星群の一つ「ふたご座流星群」の極大期であることをニュースで知り、その日の夜、防寒対策をして夜の街に繰り出した。
しかし一体どうしたことであろう?暗い場所に移動して夜空を見上げてみても星が一向に見つからないのである。
その時、私に18年分の衝撃が私の頭を駆け巡った。
「夜も空に雲かかってるんだ・・・」
こんな当たり前のことを、私は18年間考えたこともなかったのだ。
夜に降る雨や雪などをこれまで何度も経験していたにも関わらず、おそらく「暗くて見えないから」という理由で「夜は晴れているもの」と勝手に決めつけ、意気揚々と流星群観測を行おうとしていた。
確かな下心を携えながら・・・
この事実に気づいた私は極めて赤面すると同時に、私を18年間欺いていた「夜」という存在に感心したものである。
やはり私たちが深淵を覗いているとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ。(?)
常識って何なんだ?
このように一般的に考えたら、私が行った行動は「常識外れ」な思考・行動である。(どちらもただの見識不足とも受け取れるが、、、)
では「常識」とは一体何なのだろうか?広辞苑にはこのように定義されている。
「普通、一般人が持ち、また、持っているべき知識。専門的知識でない一般的知識とともに、理解力・判断力・思慮分別などを含む。」
出典:新村出(編)(2018). 広辞苑第七版 岩波書店
なるほど、それなら「普通」とは一体何なのだろう?などと考えていくと、終わりなき言葉の旅に出ることになってしまう(この現象を筆者は「辞書の沼にはまる」と呼んでいる。嘘。今名付けた。)ので割愛。
ようするに「常識」というのは「なんとなくこういうことをする(もしくは考える)人が多い(もしくは少ない)から、これを常識(もしくは非常識)にしようぜ。」という、多数決の原理にしたがったものであるような気がしてきた。
しかもその「常識」を知る過程には、自らの「経験」が必須。
私がビジネスホテルのカーテンを引かなかったように、そして夜に雲がかかっていることを考えなかったように、所詮「常識」とは、自らの経験の中で形成された枠組みの中でしか作ることができないのである。(後者については「考えればわかるだろ・・・」で済むが(笑))
しかし、なるほど「常識」に従っていれば、少なくとも多数派に属することは可能なようである。
常識を疑う姿勢の重要性
では、多数派である「常識」に従っていれば、すべて「正しい」知識を得られるのだろうか?
答えはNOである。
これは歴史がすでに証明している。
その代表的な例がコペルニクスによる地動説の提唱であろう。(興味がある人は詳しいサイトへGO!!)
ここではコペルニクスがどのような過程で地動説を提唱したかは割愛する(というか他サイトを見てもよくわからんかった→おい ぽこぽこに任せます)。
要するに15世紀あたりまで、世界のほとんどの人が「地球が宇宙の中心で、天体が地球の周りを動いているのだ!(天動説)」と信じ、これを「常識」としていた。
コペルニクスはその「常識」に違和感を覚え、自分でその「常識」に向き合った。
「地球が宇宙の中心じゃなくて、中心は太陽なんだ!地球も動いているんだ!(地動説)」ということを提唱。
その後、この地動説が正しいことが証明されたのである。(太陽が宇宙の中心という説は否定されているが)
ちなみにこのように、物事の見方が180度変わるような事を、このコペルニクスのエピソードから「コペルニクス的転回」と表現することは周知の事実である。
あなたも日常生活の中で、コぺる(造語)機会を探してみるのもいいかもしれない。
まとめ
日常生活の様々な事象を「常識」かどうかで判断することは多い。
実際、「常識」通りの行動をとっていれば、社会から煙たがれることは少ないし、安定した生活を送ることができる可能性は高い。
ただ、時にはその「常識」は誰が決めたものなのか?そしてその「常識」は本当に正しいものなのか?
このような疑問を頭に抱くことも、人生の新たな扉を開けるヒントになるのかもしれない。
かの有名なアインシュタインは「常識」についてこのような言葉を残している。
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない。」
この言葉を胸に、今日も私はコぺる(造語 2回目)ため、ビジネスホテルのアメニティをシャワーでびしょ濡れにし、星の見えない夜空を眺めながらこう考えるのである。
「本当に夜にも雲はかかっているのか・・・?」と。
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